2006年10月13日

追悼 Aくんの話

昨日の続き

昨日の夜、中学の親友のTから突然の電話があった、Aの家に近いTの母親がスーパーで偶然Aの母親と会い、立ち話の中で、7月にAが死んだと

Tとは中学の同級生で同じくOと3人で中学時代から今に至るまで莫迦ばかりやってきている、Oの進学した先の高校でOが在籍していた地学部(またか)との付き合いがここまで深く続くとはTも自分も思いもしなかった事であるが、その話はまたの機会に

翌日、20年に限りなく近い十数年ぶりにDの実家に卒業名簿をめくりながら電話をしてみる、お互い携帯の番号もメールアドレスすら判らない(^^; 十数年前にはそんなもの無いに等しかった(^^;

練馬のDの実家に昼日中にDがいるはずもなく、彼の父親に伝言を頼み受話器を置く、小一時間してDからの電話、受話機越の声が当時のままで懐かしさがこみ上げてくるが、お互いこんな機会じゃないと連絡を取り合わなかった事を謝りつつ、今晩TとAの家に行き、線香をあげてくる事を伝えたところ、Dも一緒に行きたいから、との事で、会社帰りにウチに集まる事になった。

6時半 先に来たのはDだった、声だけじゃなく風貌も昔のままで驚く事しきり、5分とおかずに到着したTと3人ウチの車でAの家へ向かう、Aの両親も自分たちの親と同じ世代で70前後といった感じであろうか? 二十数年ぶりに会うのは殆ど初対面と変わらない(^^; 玄関で一礼して和室へと通される。

そこには、結婚式の時の若い頃の写真を使ったAの遺影と並ぶようにAの奥さんの遺影そして、遺骨が仲良く並んでいる、和室に入った3人は言葉を失った。

順番に焼香をすませて、Aの両親にいきさつを聞く事になるが、これがまるで小説でもここまでやったらウソっぽいよと言うくらい、すべての不幸を一身に集めてしまったかのような話であり、時系列を追って書かないと、下手な文章では判らなくなりそうである。

就職後に転勤で九州の支社勤務となったA、そこで結婚をして数年後
障害を持った長男と年子の次男の世話に追われる、Aの奥さんは頭痛に悩む事になるのだが、これが脳腫瘍を起因とする頭痛で、その後も闘病生活を送りながら、3回の手術をするものの完治せずに今年の初めに遂に長期入院となってしまう。
それまでもそれからも、仕事と妻の看護と長男の介護に次男の世話休まるところのないままAは過労が貯まっていったのだろう、入院して3ヶ月後には奥さんは意識不明の植物状態に

そんな7月19日 長男を送迎した後、マンションの部屋に戻ろうとしたエレベーターホールでAは力尽きてしまった、30分後に通行人に発見されるもそのまま帰らぬ人になってしまう、死因は心臓発作すべての過労を背負い込んで、表に出さずいつも笑っている奴だったから置かれた境遇を受け流せずすべてにつぶされてしまったんだろうか?

Aの両親も警察からの連絡に取るモノもとりあえず、九州へ向かい、右も左も判らない中、いろいろと手続きをしている最中の7月24日病床のAの奥さんがAの死を知らぬまま静かに息を引き取る、二人が仲良く過ごせる事を祈るばかりだけど、残された二人の子を考えるとAもAの奥さんも断腸の思いだろう。

7月から九州に行きっきりのAの両親の頭を痛めたのが、長男の東京での受け入れ先、あちこちたらい回しにされ、九州の施設に頭を下げて延長して預かって貰い続け、ようやくこちらでの受け入れ先が決まったとか、近々向かいにいける事になり、ほっと胸をなで下ろしている。

小二の次男はというと、9月からこちらの学校に通うようになり、環境の違いにとまどってはいたものの今までは甘えたくても両親に甘えられなかった思いをやはりAの息子らしく自分の中にしまい込んでいたんだろう、そんな思いをようやく最近祖父母に思い切りぶつける事ができて、赤ちゃんの様に甘えているという。

その後、高校時代のAの思い出話になり、Dや自分とよくキャンプに行き、馬鹿な事をしていた事や率先して料理を作っていたとか話をしていると
Aの母親が九州のマンションを片づけているときに大量に新品や、まだ新しいキャンプ道具が出てきたとか、九州の荷物は子供達の分をのぞけばもって帰ってくる事もできず、殆ど処分してしまったそうで、そんな新品のキャンプ道具をゴミ置き場に出していたら「貰ってもいいですか?」と声をかけてきた人に事情を話してすべて引き取って貰ったそうで「ありがとうございます、大事に使わせて貰います」と言って喜ばれたそうな
まぁそのまま捨てられるよりは使われた方が良かっただろうけど、新品のまま使う機会さえ失ったAの事を思うと無念でならない。

九州の荷物の中でアルバムが見あたらなかったので、ホントにお見せできる写真が無いのが....と御両親が気に病んでいたが、もしかしたらデジタルだったのか? 70近い御両親にはそのことが言い出せなかったのだが、帰りの車の中で、Dと高校時代の写真ならあるから、今度焼き増しして持って行きながら、御両親と昔話がしたいね、と近々会う約束をして別れたのであった。

帰ってきてから、着けたテレビで日ハムのヒルマン監督の胴上げが映し出されていたのであった。

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comments

北に歓喜に咽ぶ泣く人あれば、南に嗚咽する人あり。悲喜こもごもの人生です。
日ハムの優勝パレードは11月18日(土)札幌駅前からススキノまで行われることになりました。最大25万人の人出予想です。

  • かっちゃん@2年前から日ハムファン
  • 2006年10月14日 08:38

なんとも、切ない、つらい話ですね。。
そうなる事を御本人達が望むべきもなく...
また、その状況を知っていたとしても、周りの人は
何をしてあげられたのか...。
 亡くなられたお二人も、その日その日を精一杯
暮らされたのでしょう。。
 お子様達の行く末に幸せあれ。。  祈
 


  • TITI
  • 2006年10月14日 15:43

かっちゃん
 日ハムも札幌に移って幸せです、札幌の人にも愛されて(:_:)
 岩本が居るときに優勝してほしかったです。

TITIさん
 知っていても、遠く離れた九州で、何もできませんでした、親御さんも早く任地から東京へ戻ってこれたらと言ってましたが、奥さんの病院、長男の受け入れ先などを考えると移動も早々楽じゃなかったんでしょうね。
 唯一の救いは会社の人に本当に愛されていたようで、親御さんもアットホームな会社で本当にいろいろしていただいたと、喜んでいらっしゃいました。

できるならば、残された息子とキャンプに行きたいもんです。

  • 和琴のおっと
  • 2006年10月16日 16:36

おっとさん。

その日はきっと、流れ星の綺麗な夜空ですよ。^^

  • TITI
  • 2006年10月16日 19:26

私も一歩間違えてたら、というか
状況がちがってたら同じことになっていたかもしれないわけで
他人事には思えないです。

私がそうならなかったのは、一つは運なのだろうけど
やはり地元にいられて、多くの友達がすぐ会える距離にたくさんいた
ということが大きかったと思います。

残された子供には、普段育ててくれるという以外で
親の代わりになってくれる人の存在が大きいはず。
ウチの小春もそうだったし。

おっとさんちもヒトのことかまってられる状態じゃないと思うけど、その子のこともしっかり見てってあげてね。

焚き火しながらオヤジのこと話してくれるオジサン
すげー影響力あるとおもー。

TITIさん
 そーだねぇ、流れ星を数えながら....泣いちゃいそうだよ

じんじんさん
 タイミングがずれていたらじんじんさんのところもそうなりかねなかったものね、うちもどちらかが倒れたら、ホント共倒れしちゃうしなぁ

健康にだけは気を付けたいメタボリックシンドローム どっぷり(^^;

たき火しながら、流れ星みてオヤジの事を話す..... ギターも弾けたらパーフェクトだなぁ(^^;
Dもキャンプ好きだから、ホントに実行したいもんです。

  • 和琴のおっと
  • 2006年10月17日 16:40
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